7月15日

ずっと癌を患っていたママの兄が亡くなった。(叔父さん)
何度も入退院を繰り返して、2年の闘病の末、最後は脳出血だった。
火葬のあと骨だけになったおじさんの頭蓋骨には、焦げたような赤黒い血のあとがあった。


棺に入れられていたシャツとズボンと帽子は何度も見たことのある服装だった。
サイフの中身を棺にうつしていたら、カードの束から一枚の黒ずんだ名刺がでてきた。
私の名刺だった。
3年前、今の会社に転職決まったときに渡したもので、整理してないだけかもしれないけど、お財布に入れてた名刺の類は私のそれ一枚だけだったから、大事に持っていてくれたのかなあなんて思った。


おじさんは私達兄弟のことをほんとに大切にしてくれて、思い出すのは、優しい記憶ばかり。
おじさんのことを考えると、優しい思い出しかない。
情けないところや、弱音や、悲しんでる姿とかも見たことなくて、癌の手術の後でさえ、私には辛そうな顔を見せたことがなかった。


飄々とした喋り方や、からかった話し方で、いつもムードメーカーだった。
お葬式のときですら、私が泣いてる様子をおじさんは笑って見てるような気がしてた。


泣いてるおばあちゃんを見ているのもすごくつらかった。
おばあちゃんは2ヶ月前に姉を亡くして、そのあとすぐに息子を亡くして、おじいちゃんは認知症で、精神的に参ってた。
私の顔を見るなり「来てくれたんだね、ありがとうね」って泣きながら抱きついて来た。
おばあちゃんがこんなに泣いてるところも見たことなくて、どんな思いなのか考えたら胸が張り裂けそうで、背負えないほど辛くなる。

お葬式にきて久しぶりに再会した、母、父、おばあちゃん、おじいちゃん、兄、弟を見ていると
あと何回、こんな辛くてかなしい思いをするんだろうって、これから先、何度大切な家族を私は失うんだろうって思うと、耐えられなくて、もう私が先にしんじゃいたいとも思った。
消えて途切れる絆しかないのに、生きてるうちにそれを深める必要なんてあるのかな。
私が死んで家族に同じ思いをさせるのも嫌だけど、辛い気持ちを呑み込めるほど強くなれない。



できればおじさんには、私の結婚式を見せてあげたかった。のろのろと東京生活を送っていたせいで、最期の時にも会えなかった。

うちは仏教だから、お経あげてお通夜をしながらぼんやり思ってた。
仏教は、この世に受けた生は仮の姿で、亡くなったとき戒名(本当の名前)を貰ってあの世に帰る。
この世での人生は修行にすぎなくて、単なる泡沫の夢で、人の死を痛むことですら修行なのかなと思った。
詳しくないからわからないけど、元あった場所へ帰るのだと思えば、少しは前向きに思えるのかな。

ただ、叔父さんのお葬式で叔父さんの遺体をみたときには、確かにまだ魂を感じてた。そこにまだいるような気がした。
火葬して、お骨にお経をあげてもらったときには、魂が浄化して立ち昇っていくような気持ちがした。
もうここに叔父さんはいないんだ、ここには入れ物だったもの、の欠片しかなくて、叔父さんはいないんだ。

立ち昇る魂をいくら感じても、極楽浄土の説法をいくら聞いても、生きてる人には救いはなくて、毎日楽しく生きてても必ず先に死が待ってるんだぞって残酷な言葉が突然話しかけてくる。


もう一度お話がしたかった。
またおじさんの車でどこか行きたかった。